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自分の時・場所さえもなかった主

聖書箇所マルコ1:35~45御言葉1:38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」-ある有名な作家は「この世に求める全てはわたしの部屋である」と語りました。主は朝早く起きて、父なる神との交わりを求め、自分の部屋のない主は自然の中を歩まれ、跪いたのです。主がご自身の働きをするためには、どうしても上からの力が必要でした。与えるためには与えられる必要があったのです。しかしその場所さえも人々は押し寄せてきました。ルカ4:42では「なぜわたしちから離れるのですか」と詰問しています。主は人々の要求に対して、ガリラヤの町や村に行って、人々の願いを聞き、いやし、慰め、御言葉を語ろうと自らのためにも語りかけて、「天から降ってきたのはこのためである」と立ち上がられました。公生涯の終わりまで弟子達と共に祈られ、交わりを持ちつつ、一人になる時間さえも惜しまれて、人々にご自身の全てを与えようとされたのでした。私たちも、自己中心の自分から解放されて、人々との交わりの時を大切にしましょう。
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[ 2013/07/05 09:34 ] マルコ | TB(0) | CM(1)

マタイのその他

聖書箇所マタイ14:22~36御言葉14:30、31「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」-ペテロは主が海の上を歩かれていた時に、自分も歩けると信じて、歩きました。主だけを見ている時は恐ろしくはありませんでしたが、大波を巻き起こす強い風に気づく時に怖くなり、不信仰のために沈んでしまいました。主を信じ続けることは難しいことです。素晴らしい生涯が継続したとしても、それは自分の力ではないのです。主の憐れみです。絶えず主を見上げて、主に頼りつつ、謙遜に歩みましょう。そこには必ず海の上を歩むような、驚くような恵みの生涯が開 かれてくる時が来ます。主を信じる生涯は奇蹟の連続が待っています。ペテロのように、「私も海の上を歩きたいのです」と主に願うような大胆な人になりましょう。


聖書箇所マタイ15:1~20御言葉15:18、19「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」-口から出る、言葉やため息や叫びやつぶやきなどは全て心から出てくるものであり、それが語る人自身が汚れているならば、他の人を汚すものになります。人はまず心で思うことが言葉となり、行動になります。心で何を考え、何を思っているのか、それはその人自身の霊性、その人そのものを示しています。聖霊によらない人生は真に醜く、自己中心であり、汚れています。どのようにしてうまく人を利用し、奪い、いじめるのか等を絶えず思い巡らし、実行するのです。日頃のその人の霊は肉体によって隠されていますが、死ぬと霊だけになり、その人の実態が露わになります。
祈りの内に聖霊を日々求めている人には上記のようなものは消えていきます。聖霊に清くされて、清い想いをもって日々を過ごしましょう。語る言葉によって周りの人が励まされ、支えられていくことでしょう。27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」


聖書箇所マタイ15:21~28御言葉15:27「女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」-「わたしが来たのはイスラエルの家の失われた羊」のためであり、「小犬にパンはあげられない」とまで言われた時に、この異邦の女性は自らを犬の立場に主の言葉通りに従ったのです。その時に見えた状景が「小犬でも食卓から落ちるパン屑はいただく」という言葉になりました。主はこの女性を深く愛し、又この女性の信仰を知り、その信仰を確認されました。人生は苦しいことばかりではありません。このような出会いにより、新しい人生が始まる時もあります。主のお言葉に従う謙遜な心と信仰を養われ、主を信じつつ、主を期待する者となりましょう。何とかしてという思いと信仰を抱き、日々祈りを捧げ、祈り続ける時に、状況を突破するように困難や試練が終わって主の御業が始まります。


聖書箇所マタイ16:1~12御言葉16:2、3「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。」-人々は客観的な天気については予想できました。しかし時代のしるしであり歴史の主であるイエス・キリストが天から下られて、人々に神からのしるしであることを示しながらも、人々はそれを受けとめられず、神として見ることができませんでした。彼らは主ご自身と関わること無く、過ぎ去っていきました。イエス・キリストをどう判断し、どのように信じるかが、歴史を通してすべての人間にとって最も重要な決断であり、主体的、信仰的な決断が求めらるのです。






聖書箇所マタイ16:13~20御言葉16:15、16「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」-主がこの問いを出されたピリポ・カイザリアは、ヨルダン川の源流であり、ヘルモン山の雪解けの水が一年中、山の麓の岩場から吹き出し、豊かな泉がある場所でした。カイザリアと呼ばれ、この世の富みに満ちたローマ風の都市であり、人々で溢れていた場所でした。主は「わたしは何者か」との人々の答えを聞くと、弟子達は「預言者エリヤやエレミヤのような最高の人物」として語りました。主は「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、ペテロは「メシア、救い主であり、神の子です」と答えました。これは「救われるべき人間とは異なる、人間以上のお方で、神としか言いようのない、わたしの救い主です」という意味です。これこそが主が私たちに求めている答えです。私たちはイエスについて人から聞いて知るのではなく、豊かに溢れる命をわたしに与えて下さる救い主としてイエスを知るものとなりましょう。


聖書箇所マタイ16:21~28 御言葉16:24 「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」-ペテロは最初の主の十字架による死と復活を語られた時に、主に従うことによって出世や良い地位を願っていたことがだめになると受け止めて、「とんでもないことです」と語りました。この後もペテロは自らの不信仰や、自分の努力では越えられない出来事があることなどを認め、主に対して悔い改め、聖霊に満たされる勝利の生涯を歩むことになりました。そのための道筋を主は示され、自分を捨てること、自分の十字架を背負って主に従うことを私たちに願われました。自分の出世や現世を肯定し、この世に目を注ぐよりも、十字架に、永遠の命に至る目標を定めて積極的に 取り組み、生きる喜びと希望を持つようにと主は示されました。



聖書箇所マタイ17:1~13御言葉17:5「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。-ペテロは弟子達全体を示していますが、主の苦難と十字架の死と復活に対しては、理解できず、ペテロは主の前に進んで、主の行くべき道の立ちふさがってストップをかけたのでした。それはペテロ達が、神の御心よりも、自分たちの考えを優先したためであり、弟子達の考えるメシアとは栄光の王であり、征服者でしたが、主の語られたメシアは「苦悩し、迫害され、殺されるメシア」でした。自分の願いを優先させメシアによってこの世の出世を求めていた弟子達の考えに全く反するものでした。主はペテロ達を連れて、変貌の山に行き、モーセとエリアとの出会いの時を持たせ、そして光り輝く神の臨在の雲を見せ、天からの声が聞こえたのでした。「御心に適う者、これに聞け」との命令は弟子達にとっては、驚くべき出来事であり、自らの考えを見直して、捨てさせる良い機会となったのです。


聖書箇所マタイ17:14~21御言葉17:20-イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
-私たちに不可能が多いのは「信仰が薄い」事が理由です。「からし種一粒」で良いのです。信仰は質の問題です。間違った信仰を増やしても同じです。正しい信仰があれば、何でも可能になるというのです。人は神のかたちに創造された素晴らしい被造物です。神に対して感謝し、隣人と心通わせて、お互いの違いを理解して、試練や困難や病などをも乗り越えて、共に生きようという強い願いと祈りは必ず奇蹟をもたらします。主が語られた「あなたがたにできないことは何もない」と本当に信じているでしょうか。主はできないようなことを語られたのでしょうか。できなければできるようになるまで、努力し、生き続けましょう。今日もできないと思う自分を切り開き、できると信じて歩みましょう。






聖書箇所マタイ17:22~27御言葉17:27「 しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」-この主がなされた奇蹟は余りにも不思議な出来事のために、また自分の費用をまかなうために自己目的の奇蹟を行うなどとは考えられないと、多くの学者は反対を語っている。主のおおらかな、楽しい、ユーモアの一つとして、私は信じています。私たちは余りにも、目的だ、やり方はどうだ、その結果はどうだったかなど、精査しすぎて、自由さを失ってしまうことがあります。紀元80年から90年頃に書かれたマタイ福音書、紀元70年のエルサレムの陥落により神殿はなく、神殿税はローマ丘の偶像の神殿に納税することになっていた。納税反対のローマ憎しの多かった人々に、聖書は主はペテロと共に税金を「納めます」と語っている。そしてきっとそのお金も魚の口を通してでも神は必ず与えて下さることを約束しておられたのです。


聖書箇所マタイ25:14~30御言葉25「御言葉恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」-キリスト教は恐れずに、前に向かって歩んでいくことが求められます。主人である神と日々喜びつつ、与えられた賜物を生かして、神と人とに仕えて歩むことが求められています。この人のように失敗することを恐れて、賜物を生かすこともなく隠れるような生活を神は望んでいません。現代人の特徴は自分の居心地の良い場に居続けて、交わりに加わらずに隠れること、尻込みすることです。失敗の経験や、人との関わりの恐れにより、関わりを持てなくなっています。キリスト教は神と人との交わりが中心であり、語り合い、分かち合うことで、信仰が成長します。少なくても1タラントンは6000日分の給与であり、20年分の年収です。少ないとは言えない、多くの豊かな祝福や賜物を神から与えられているのです。感謝を持って日々を歩みましょう。



聖書箇所マタイ25:31~46御言葉40-「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」-貧しい人や病む人、傷ついた人や投獄されている小さい者への愛は憐れみの心によって動かされた行動が生じます。しかしウェスレーがオックスフォード時代に、同様な行動をしたとき、それは自分の義(よくやっていると自分で自分をほめる)のためであったと告白しています。右の手の業を左の手に知らせてはならないのです。小さい者への愛ではなく、小さい者とはキリストの仮の姿であるとして、キリストへの愛のために行うことも、自らの義を追い求めることに通じます。動機の微妙な問題があります。私たちの心の奥深くを見つめておられる主がおられます。「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから」(詩編139:16)。このお言葉を警告ではなく、主への感謝として受けとめましょう。





聖書箇所マタイ26:6~13御言葉26:12「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」-主の十字架の時が間近な時、一人の女性が自らの財産の全てに等しい高価な香油を主に注いだのです。弟子達は彼女の動機を見抜けずに、「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と叫びました。しかし主はこの人の業を、「わたしを葬る準備をしてくれた」と受けとめ、「世界中どこでも、この女性のしたことも記念として語られる」と喜ばれたのでした。彼女は繰り返し主が語られていた苦難と死のことを自分の判断によらずに受けとめたのです。弟子達は最後まで、自分の思いが優先して、最後の晩餐の時も、誰が一番偉いかなどと、自分の考えを貫こうとしていました。周りの人々の語っている言葉を良く聞ける心の耳を持ちましょう。自分の考えを何時でも捨てられる柔らかな心、謙遜な心が他の人を愛する愛の心となります。

聖書箇所マタイ26:14~25御言葉26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」-神が選ばれた弟子の一人が主を裏切るということは神の選びさえも覆されるという重要な出来事(ヨナ等)を意味していました。神の選びは人間の自由ということも意味していました。主はこの場面ではっきりとユダの裏切りを語りましたが、結果的には全員が裏切ったのでした。しかし、その後の人間の側での悔い改めが重要でした。ペテロは「悔い改め」、ユダは「後悔」したのです。後悔とは真の悔い改めではなく、「やり方や判断が適切ではなかった。次は成功させよう」という、結局自分の破滅を認めず、最後まで自分を頼るユダであったのです。私たちも絶えず「あたがたはわたくし離れるならば何もできません」(ヨハネ15:5)とあるように、主に頼り、「助けて下さい」と祈る者になりましょう。


聖書箇所マタイ26:36~46御言葉26:41「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」-ゲッセマネの園で主と弟子達は必死の祈りをしていましたが、弟子達はサタンの誘惑に負けて眠り込んでしまいました。私たちは都合が悪いと眠りに逃げます。しかし自分の問題になると目が冴えて眠れなくなります。この時の弟子達は主の死ぬほどの試練・苦難の時が人ごとであり、自分の問題ではなかったのです。人の問題をどれ程自らの問題として受けとめられるのか、ここに執り成しの祈りの秘訣があります。執り成しの祈りをしている間に、その人の問題が自分の問題のように感じられ、なお祈り続けている時に応えられたという確信に至る時があります。心は燃えても肉体は弱い私たちですが、執り成しの祈りが応えられたという確信に至るまで、自らの問題として祈り続けたいものです。


聖書箇所マタイ26:47~56 御言葉26:56「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。-主が逮捕される時に語られた言葉は、マタイ自身が始めから繰り返し語られているマタイ福音書の主題の一つである「主が預言者を通して語られた事が実現するためであった」という繰り返し語り続けられた言葉がこの箇所では、実際に預言者に語られたご自身である主がその言葉を語られたのです。御言葉が実現するためには、力ある主が天使の軍団を率いて、捕まえようとする人々を追い払ってはならないのでした。自らの力・権威・栄光を捨てて、主は父の御心がなるように、御言葉が実現するようにと、この状況を全て受け入れ、十字架の死に向かって、ほふられた小羊となって歩まれたのでした。

聖書箇所マタイ26:57~68 御言葉26:64「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、 人の子が全能の神の右に座り、 天の雲に乗って来るのを見る。」-主は神を「アッバ」(パパの意味)と親しみのある名で呼ばれたのでした。当時のユダヤ人にとっては驚くべきことであり、それだけでも不敬罪でした。そして主の裁判の決着の言葉は証言が不十分で決着が付かない時に主が自ら語られた言葉でした。それは主の天上のお姿と再臨の時の出来事を語った言葉であり、自らがあの神の右に座り、いつの日か天の雲にのって再び来ることを約束したのです。主が語った言葉はユダヤ人にとっては自らを神とするような、神を汚す憎むべき者であり、十字架刑に相応しいと断定されたのでした。しかしこのようなことは主は予想されましたが、それを恐れずに、真実であるとして裁判の時に語りました。主はいつの日にか、この地上に来られるお方であることを私たちは忘れてはなりません。


聖書箇所マタイ27:1~10 御言葉27:9,10 かくて預言者エレミヤのことばが成就した。いわく、「彼らは銀貨三十すなわちイスラエルの子らが人間につけた値段の金を取って 主がわたしに命じられたように陶器師の畑の代として与えた」と。-ユダの首つり自殺の問題は旧約聖書の成就であるとのマタイの主張が語られているが、銀貨三十(三十万円程)がキリストにつけられた値段であり、あまりにも安く、ユダがお金に目がくらんだとの説は疑問が残る。使徒1:18では、不正のお金で土地を購入しその土地に落ちて死んだという内蔵損傷による事故死説であり、ユダの裏切りの理由の不明確さと共に死亡原因も分かれている。いずれにせよ主によって選ばれ、主と共に生きる恵みによる救いに依り頼むことよりも、後悔することはあっても、彼の鋭い明敏な思考や自分の力で、何とかしようとした傲慢な人生の結末と言える。



聖書箇所黙示録2:12~19 御言葉2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」-昨日は6月26日のホーリネスの弾圧記念日(昭和17年)でした。ここにはこの世を支配するサタンの王座があります。サタンは富や武力によって人々を支配し続けてきました。特に日本は江戸時代210年間、毎年人々はイエス・キリストの踏み絵を踏み続けさせられ、殉教者は数十万から百万と言われています。明治から昭和では天皇が神として礼拝させられ、このような国は世界で類がないのです。クリスチャン人口もイスラエルと並んで世界最低に属する国です。どうかこの日本がサタンの支配から開放され、主の御名があがめられる国となるように祈り、戦いましょう。

聖書箇所マタイ27:45~56 御言葉27:54「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」-イエス・キリストの最後の姿と様々な出来事を見て、イエス・キリストを神の子として証言する人々が起きました。百人隊長はその地域の警察、行政、政治、建築等の責任者でもあり、地域の安全や人々との融和に果たした役割は大きかった。もしこの人が後に聖人となった「ロンギヌス」という名の兵士であるなら、彼は兵士を辞め、使徒たちの教えを受けると、カッパドキアで28年に渡って修道士のような生活を送り、多くの人々を改宗させた。後に偶像礼拝を拒否して殉教したと言われています。同じ出来事を見てもそれぞれの人の生涯は全く異なり、キリストと共に生きることは今の時代においても聖霊によって実現するのです。


聖書箇所マタイ27:57~66 御言葉27:64「それゆえ三日目まで墓を守るよう命じてください。さもないと、弟子たちが来て彼を盗み、民に『彼が死人の中からよみがえった』ということでしょう。するとこのあとのほうのうそは前の(イエスの)より悪いでしょう」と。-ユダヤ人達は今もイエスの復活はなかったと語り伝えているかも知れません。キリスト教はうそで固められた宗教であるというのです。現在のイスラエルでは分裂が起きています。熱心なユダヤ教徒たちは現在のイスラエル政府(偽ユダヤ人-黙示録2章に繰り返し書かれています)に反対しています。またイエス・キリストを信じるユダヤ人達(世界で10数万人)はメシアニック・ジューと呼ばれて、新約聖書を読み、ユダヤ教でありながら教会を建設しています。イスラエルに行くとユダヤ人とパレスチナ人を区別する巨大な分離壁が数百キロにも及びます。戦争中に壁の中に閉じこめられたゲットーのユダヤ人が今度はパレスチナ人をゲットーの壁で閉じこめています。キリストの平和が人々の上にあるように祈ります。

[ 2013/07/04 09:45 ] マタイ | TB(0) | CM(0)

サタンに勝利するためには 

聖書箇所マルコ1:21~24御言葉1:2-7人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」-主はヨハネによる新しい時代の声を聞き、洗礼を受け、天からの声により聖霊が降って神の子である承認を受けました。そして世を支配していたサタンに出会い、サタンと神による激しい戦いが始まりました。主は普通の人々を選ばれて、ご自身の使命と神の言葉を任せる後継者養成を始められ、そしてついに宣教を開始されました。主の教えは人々には権威ある新しい教えでした。当時の律法学者達は、過去の学者達の権威ある口伝律法をもれなく記憶して伝え、解説していたのです。ですから彼らには権威が有りませんでした。しかし主は神の子の権威によって、自らの判断による御言葉の解説を行いました。聞いたことのない、旧約聖書が新しく開かれていったのです。そして同時にサタンの僕である悪霊が退いていったのでした。私たちも絶えず、新しい時代に向かって決断し、サタンに勝利するような神の御業がなされるように祈り求めましょう。
[ 2013/07/04 09:31 ] マルコ | TB(0) | CM(0)

神の心となるように

聖書箇所マルコ1:1~11 御言葉1:11すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。-イエス様が洗礼を受けられた時に天が裂けて聖霊が鳩のように降ってきました。そして天からの声があったのです。父と子と聖霊の交わりが行われた時でした。主になされたことは、イエス・キリストを信じる者、神の子とされる者にも起こる出来事です。私たちも主と同じように、「わたしの愛する子」と呼ばれ、私たちも父なる神を「アバ、父よ」と呼ぶことが出来ます。父の御心に適う者、主の祈りの「御心」が実現していきます。父の御心は、互いに愛し合うことであり、今の地球のような、争いや自己主張や自分さえよければというような心は清められねばなりません。地球破壊や原発も人間の傲慢のゆえであり、み心がなされるようにと祈り続けましょう。この世界が神の国となるように祈り求めましょう。あなたの心が敵をも愛することの出来ような神の愛の心となるように、み心を求めましょう。



[ 2013/07/04 09:30 ] マルコ | TB(0) | CM(0)

人の語る言葉は重要なのです

聖書箇所マタイ12:33~42御言葉12:36、37「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」-人の心にある想いが言葉となって自然に出てくるというのです。ですから人としばらく話しますとその人の心が見えてきます。傲慢な人は傲慢な言葉が、この世的な人はお金に関する話しとこの世の楽しみの話しが出てきます。不安な人は様々な心配や不安が伝わってきます。公で語られる言葉では無く、何気ない、つまらない、無駄口と思える気を許した言葉、何の意図や想いも無く語った、日常生活のそのままの言葉がその人の真の心を示しているのです。主が聖霊によって行われた御業を指導者達は悪霊の働きと断定しました。彼らは家庭ではもっと主を批判したことでしょう。人は自分の言葉によって義とされるか罪ある者とされるのです。信仰によって義とされると同じほどに人の語る言葉は重要なのです。
[ 2013/06/27 09:22 ] マタイ | TB(0) | CM(0)

厳しく、また寛大であり、時には自由に

聖書箇所マタイ11:20~30御言葉11:29
「 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」-悪霊に取り憑かれていた人を主がいやされたところ、パリサイ派の指導者達は主を悪霊によって悪霊を追い出したと語った。このことに対して主は私に味方しない者は、中立者、そして傍観する人も敵対する者であると語った。悪霊の働きはそれ程に明確です。マルコでは9:40では「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(ルカ9:50「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」)と語り、寛大な立場を言い表しました。ある方は前者は自分自身に対する厳しさを示し、後者を他者に対する寛大さを示していると言う。どうしても自分自身に対して私たちは甘くなり、評価を低くしてしまいますが、他人には評価は高く、厳しくなりがちです。イエス・キリストは同じ出来事を語りながら、見る視点を変化させながら、この世でも微妙な対応をしなければならない相手に対して、厳しく、また寛大であり、時には自由に生きるように示されました。
[ 2013/06/27 09:20 ] マタイ | TB(0) | CM(0)

天国はほんとうにある


聖書箇所マタイ11:20~30御言葉11:29「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」-主ほど柔和で謙遜な方はおられない。柔和とは譲れる心です。主は万物を支配者でありながら、神であることを捨てられたのです。へりくだって、十字架の死に至るまで自分を捨てて従順に歩まれました。謙遜とは弟子達の前に神でありながらひざまずくことです。「天国は、本当にある」(青志社)という大病した牧師の子供が天国に行った不思議な本が現在とても読まれています。ある感想文では「一番印象に残ったことは、コルトン君の母親が以前流産した子(コルトン君にとっては姉になる)が天国に来たコルトン君を抱きしめた。その子は、ちゃんとコルトン君よりも大きく成長し、『ママとパパが天国に来るのを待ちきれない』と言った。もちろん、4歳のコルトン君は母親が以前流産をしていたことなんて知らなかった。両親はこのことを聞いて驚ろき、慰められた。」主は子供を最も愛され、幼子のように生きることを望んでおられるのです。
[ 2013/06/27 09:19 ] マタイ | TB(0) | CM(0)

主に留まり、主と共にあゆむならば

聖書箇所マタイ10:16~25御言葉24、25「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。」-先生である主は弟子である私たちのためにあらゆる面で私たちと同じように、同じ経験をして下さいました。主はこのためにこの地上に来られたと言ってもよいのです。それは私たちが苦しみや試練、また迫害を経験したときに、主も同じように苦しまれたことを思い出すためです。また主はすべての試練や苦しみ、あの十字架の歩みを経験され、圧倒的な勝利をもって、死にさえも勝利された方であることを受けとめ、主と同じように主の弟子である私もたとえどのような試練や困難や悲しみがあったとしても、必ず勝利できると信じるためです。ここにイエス・キリストを信じる者の喜びと希望があります。ですから僕である私たちは主のようになれればそれで十分であり、圧倒的な勝利を得ることができるのです。
[ 2013/06/27 09:17 ] マタイ | TB(0) | CM(0)

主と同じ姿に変えられると信じます

聖書箇所マタイ10:1~15御言葉8「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」-12弟子達が主の権威を頂いて派遣されたときに、主が語られた言葉です。主が行われていたことと同じ事を行うように命じています。主がこの地上に来られたことは主と同じ事をするようにと主は願っているのではないでしょうか。でもこれらのことは奇蹟以外のなにものでもありません。このようなことが私できるはずが無いと思うからできないのであって、できると信じるとできるのではないでようか。多くの先生方はこのような力は呪術的であると語り、ただ信仰のみで歩みましょうと語ります。ですから奇蹟は起きません。奇蹟を信じる牧師が起こされることを願っています。自分はどうであるかと問われますが、このようなことを行うときが来ることを信じています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。
[ 2013/06/27 09:15 ] マタイ | TB(0) | CM(0)

悲しみや試練のあるところに祝福が


聖書箇所マタイ9:27~38御言葉27,28「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」-危機の時代と言われ、教会も高齢化が進み、人数が減少している。しかし二元化し、祝されている若い教会も数多くあります。主は各地を周り、貧困や苦悩、病や様々な要因で痛んでいる人々をいやされ、「収穫は多い」と語られたのです。悲しみや試練のあるところに救いが起こるのです。むしろ「働き人が少ない」と言われています。献身者が次々と起こされるように、「収穫の主」に信じて祈り求めましょう。ウェスレアン・ホーリネス神学院も3名の入学者があり、現在10名です。各地の神学校も祝されて、福音が前進し、教会が祝福されるように、切に祈りましょう。

[ 2013/06/27 09:11 ] マタイ | TB(0) | CM(0)



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